2012年12月4日火曜日

深刻な日本の劣島化

○大震災後に見えたガバナンスの欠如

大震災は自然のもたらした大禍だったが、今年も温暖化現象の一つと想われる瞬間的な豪雨が列島各地を幾たびか襲い甚大な被害をもたらした。かつてない落雷被害も「もしこれが原発の上空だったら・・・」と多くの人々を不安に陥れた。日本列島を取り巻く地球環境が、大きな異変に包まれつつある予感すら抱かせる。
 しかしこうした自然変動への不安よりも、この日本列島を覆っている最大の不安は、何といっても政治ガバナンスのなさと、遅々として進まない被災地の復興、そして著しい情報閉塞による原発対策と国家の未来展望のなさ、等である。
 7月の某日、一年ぶりに去年被災地支援に訪れた南三陸・女川・石巻・南相馬を訪れた。驚いたのは、復興に関する諸施策の報道は山ほどあり、19兆円の予算支出をはじめ、復興・復旧がもう少し進んでいると思いきや「泰山鳴動してねずみ一匹」とはこのことか。極端な言い方をすれば、一年前の被災数カ月後とさして変わらない状況だった。周知のように70年分と云われるガレキ処理は受け入れ先の困難さ等から、未だ時日が必要としても、人々の不安は日に日に募り、生活再建は見えていない。女川町の郊外にある尾浦地区では漁を再開したい住民が復旧がままならない港湾を手作りで改修し漁を再開した。建築が禁止されている尾浦地区には基準法逃れの新築バラックが住民の思いを代弁するように建てられていた。構想や議論があっても、現実は解決力のない官僚政治の象徴である。市街地の復旧はおろか、移転先の目途さえついていないお粗末さであった。

○皮肉な原発企業のガバナンス

<復興著しい女川町にみる原発システムの威力>
 訪れた二市二町の中、人口の最も少ない(8千人余)女川町だけは、復旧を終え、新たな漁港施設が次々と建てられていた。道路やインフラも整備され、他の町との様相の違いに首をかしげた。ガレキの処理もほぼ全滅だった被災直後の状況からすれば、女川町が最も大変なはずだったのに、きれいに仮囲いされた処理場の中で殆んど、処理を終えつつあった。女川町の郊外に存在する女川原発の恩恵にあずかっていたからだ。巨額の資金がこの町に還流していた。

○復興資金の振り分けを牛耳る官僚と政治家
 
女川町に比べ、人口的には倍の人々が住んでいた南三陸町には、予想されていた復興資金の1/10も届いていなかった。町の防災センターに最後まで停まり、勇気あるメッセージを送り続けた遠藤未希さんの悲痛な叫びが、今も空しくこだましているように思えた。折から復興へのシンボルであった陸前高田の一本松もそしてこの防災センターも、壊すことだけは早い政治家の手によって消えようとしている。
 南三陸町の現状は、震災前一万五千人近くいた人々の中、幼児や小学生を抱えた世帯が他県に出てゆき、今は凡そ半分の8千人程の町になっていた。それでも地元の商店主有志が集まり、郊外の冷凍工場跡地にプレハブ造りの二十数軒の商店街を作り、にぎわっていた。被災直後の支援の際、お会いした通称、南三陸さんさん商店街の阿倍会長は、プレゼントに持参した商店街のTシャツに感謝を込め乍ら、半分になってしまったお客様と厳しい経営状況と将来に苦悩をにじませた。復活した商店の規模は、一軒約15坪で、全てブルドーザーで有名なコマツ製、出店に関して公的負担は店舗設備の半分程で自費出店、一年間の国保有後二年目からは町に所有権移転され全財産を失った商店主達に、五年後退去・撤去費用は自己負担という過酷な条件をしいている。何故そのまま営業を継続させてあげられないのか。訳が分からない。
 ある商店主は、こんなことを嘆いていた。「安住財務大臣の選挙区内の被災地では、全額公的資金で復興支援がなされているのに、力のない選出議員の我々の地域では、手続きに手間取った上、殆んどの支援金要請が却下されてしまう」と。被災地を訪れて明確に分かったことは、大手ハウスメーカーの安価な仮設住宅が地元政治家絡みの中小ゼネコンを通して、予想以上のスピードで建てられていたこと。事実、私達の会社にも地元ゼネコンの受注予定の仮設住宅を、地元ゼネコンの受注する金額の一棟30パーセント引きで建てられないかとの相談が某政治家の知人から来た。勿論即座に断った。日常茶飯事の、大企業と官僚主導の利権事業だけは早いのである。民主党政権になって3年、当初は事業仕分けなるものの手法も新鮮で期待感にみなぎっていたが何のことはないもとの杢阿弥、天下りは横行し予算バラまき行政が、官僚のしたい放題である。
 折から年度末予算消化のための不要な道路工事が日本の至るところで交通渋滞を巻き起こしている。相も変わらないお役所行政のシンボルだが、予算は余っている。なのに増税!

○復興予算19兆円のゆくえ

<ウソの名目で全国にバラマキ>
 南三陸に向かう浜街道で完成していない道の向こうに、首都圏でも斬新と想われる大規模サービスエリアが完成間近だった。道路の復旧もままならない多くの被災地の現状からすると極めて奇異な光景であった。多分、施設が完成しても半年間は使われないような周囲の道路事情なのに「何故、こんな立派なサービスエリアが必要なのか」と予算の執行を疑った。
 この一年半、被災地で出会った人々の大半は先の尾浦の漁港のように「町の再建はまず、人々の生活再建が先」と、異口同音に口にしているのに、各省庁のエゴで、箱物や道路設備だけは進んでも、人々の生活再建にカネは回っていない。こんなことなら被災者50万人に一律一千万円を贈与してあげれば五兆円ですむ。その方がマシではないか。結果的に生活再建→街の再建が進むという専門家もいる。同感だ。

<何と沖縄の防波堤工事が復興事業の怪>
19兆円の復興予算の中、被災地に直接投下された予算は、未だ2兆円足らずである。何と驚くことに大半の復興予算が被災地以外で使われつつある。NHKの報道によれば、総事業510件の中、被災地内の復興事業予算は30件に過ぎない。一例を挙げると、去年まで国土交通省の台風対策予算で作られていた、沖縄の防波堤工事が台風対策から地震対策に名目変更され5億円の予算が復興予算からあてられていた。中京地区のコンタクトレンズメーカーの工場増設に、災害時の雇用確保という名目で十億円、大震災により減少しつつある留学生を増やすという名目で、昨年まで文部省の青少年交流事業として予算化されていたものが、2日間被災地訪問をするというこじつけの理由で72億円というような巨額出費、ひどい出鱈目ぶりだ。腹が立つのは私だけではない。今回の消費税増税、社会保障費だけに目的化すると云っているが、どんな形の社怪保障がでてくるか見ものだ。この国には予算の使われ方を示すバランスシートもない。予算は余っていても次年度には増え続ける。これではどんなにおカネがあっても足りる訳がない。冗談ではない。野田首相は将来にツケを回さないための苦痛の選択といっているが根拠のない空しい発言としか聞こえない。


○政治の停滞・国会の無機能化は何故

ガバナンスの欠如、日本経済・社会の低迷は何故こんなに長く続いているのか。官僚が優秀でお上任せだからという人もいる。流石に、経済がしっかりしているという人はこの十数年いなくなった。
9月の自民党総裁選に立候補した五人の親の七光、2・3世議員が合わせて百光。このヒントになる。筆頭は安倍晋三である。潰瘍性大腸炎と称して本当かどうか分からないが、医療の専門家に聴くとメンタルな病気で完治の難しい病気だという。結果、自民党の人材難で総裁になってしまったが就任会見では極めて元気に振る舞い、挙句の果てに吉田松陰の辞世の句を持ち出し、「留め置かまし大和魂」とまで云ってしまう。舞い上がっている。一度は国のリーダーになりながら生き恥をさらすような状態でその責任を投げ出した。松陰は怒っているに違いない。そして、期待の橋下氏との連繋までささやかれている。橋下氏は私見であるが、稀代の天才政治家で、石原都知事と共に正直さ、率直な弁舌と未来への決断のできる数少ないリーダーだと思っている。有能有敵、日本では有能は嫌われがちである。私達には見えない何があるのか分からないが、連繋はNOだ。祖父は岸信介元首相、米国の画策した原発誘導と安保協力をひきかえに巣鴨プリズンからA級戦犯処刑を免れた御人だ。岸の娘である母上は悪名高い実業家との付き合いがあり、当実業家の運営する札幌の某霊園には母上の十数米大の観音像まである。疑惑の家系の三世議員だ。石破氏は票の重みの低い鳥取県の名門の出であるが、愛娘は東電の社員、風貌を批判するのはよろしくないが、妙に説法じみた言動と上目遣いの目つきが気になる。説法じみているのは母方の家系が宗教家だからからなのか。イタリアに「男は目と背中で分かる(イル・デル・ソル)」という諺がある。意外と的を得ている場合が多い。石原氏は父上がちょっと齢をとりすぎたが、まだ元気だ。都知事との親子連繋ができれば面白い。谷垣氏への裏切り行為のついでに、自民党から脱出してもいい。町村氏、林氏も名門の出であるが、ハングリーさに欠け、良くわからない。
どの御人も実業経験がなく真の説得力がない点で、政治家ではなく政治屋であるが、党内の政局にたけていても、天下国家を論じ政権をとるという気概と決断力が感じられない。サラブレットからなのか。民主先進国である英国では世襲は原則禁止、公募制が当たり前である。国会に出てゆくためには幾多の政治、実務的試練を経る。根底が異なる。根底から変える必要がある。

<国会に不可欠な真の議論・論争>
 
日本の国会中継を見ていて喧々諤々の議論の末、結論が見出されることはない。大した論争もなく、論争かと思いきや与野党互いのアラ探しと政局批判に終止している感がある。
 英国の国会は与野党互いが真剣に向き合いアドリブで打打発止論争を挑み、効果的な合意形成を目論む。その過程は日本のそれに比べ極めて分かり易い。日英国会機能の差は何故なのか。
 理由の一つに日本の国会は、一週間前に予め質問事項を提出し、官僚が下書きした結論を決めてから議論しているので、どんなに時間をかけても新たな真の合意や決断は得られない。
 従って議員も英国に比べ議題について完璧な勉強をしないことにつながり実践力に欠けている。予め決められた答弁書は各々の省庁サイドの意見に過ぎず、統治のための合意形成や効果的な決断・実行は生まれにくい。要するに過去や前例がものを云い、未来は拓かれない。
 この点、橋本市長は自らの出自と弁護士体験、そして政治家としての言動の中で決断が早く目利きも秀でている。そう思うのは小生の付き合いのある某私鉄の№2、F氏が不採算の大阪市の交通市局長にスカウトされたことで明らかだ。F氏は私鉄経営の要諦である労使交渉に敏腕をふるってきた。ある朝、友人であるF氏の姿がNHKのニュースで流されてこの人事を知り驚いた。話題になっている週刊朝日の記者、佐野真一なる作家の言動はさまに日本の言論の自由が脅かされていることを物語っている。大きな力を持つマスコミが、現在最も日本の未来を明るくできる一人のリーダーの足を引っ張っている。出自や経歴の事実を確かめた訳ではないが、「人は生い立ちやさまざまな経歴を経て大人になってゆく。」どんなことが事実であろうと、その事実があったからこそ今の橋下さんがあるのだから逆境であればある程、この人の人間の資質やリーダー力は強いと思うのが賢明である。相変わらずネタミ・ソネミ・ツラミの社会の中でマスメディアがこれを助長している風潮も感じる。真のジャーナリズムが必要である。

<政治の停滞は憲法と社会システムにも原因>
 憲法改正議論が長い間交わされているが、その要因の多くは「現実的ではない」「米国から強制された主体のない憲法である」というような考えに基づく。そもそも憲法とは法ではない。規範であり、国家づくりの枠組みである。専門家の言葉を借りれば「憲法とは国家の統治体制の基本を定める法の総体であり、最上位に位置するものである」
 米国から与えられ、若しくは強制されたと思える条文は、憲法の第十一条で「この憲法が国民に保障する基本的人権は侵すことのできない永久の権利として現在及び将来の国民に与えられる。」となっている。この「与えられる」という言い方が紛らわしい。神様なのか国家なのか、はたまた制定当時の統治者なのか。分からない。更に基本的人権等というものはない。只単に「人権」である。この点ドイツ憲法では「人間の尊厳は不可侵である。これを尊重しかつ保護することはすべての国家権力の義務である。」と、明確に主体を表現している。
 もう一つ大事な部分は「主権者不在の国家を作ってしまった」ということである。確かに憲法の前文に「ここに主権が国民に存することを宣言し、云々」とあるが、わが師の教えによれば、この場合の主権者とは国の統治についての意思決定者としての主権者のことであって、その統治権の行使について直接的責任をもつ権限の所有者または代行者としての主権ではないと云っている。即ち象徴天皇はいるが、我が国には主権の代行者としての元首が不在なのである。先の橋下氏達の施策の中で訴えている首相公選が実現すれば、これに近づくことはできる。

<教育権、教育の責任は親にある>

私達の幼い頃は、どの家庭でも家族の団欒があり、大抵の家族は夜8時頃になると家族が揃い、子供達のその日の出来事や温かい内々の会話が親を中心に交わされていた。今こうした団欒は過剰なまでの塾通いと親の生活体系の変化で殆んど無くなってしまった感が強い。この団欒や近所の年寄りから聴く昔話も、実は重要な教育の「場」であったはずである。
 憲法の教育規定は「すべて国民は法律の定めるところによりその能力に応じてひとしく教育を受ける権利を有する」とあるが、誰が教育するのか。その責任の所在について明記されていない。この点、ドイツ憲法では「子供の育成及び教育は両親の自然の権利であり、かつ何よりもまず両親に課せられている義務である。その実行に対しては国家共同体がこれを監視する」と規定している。国や社会では間接的に責任をもっている。日本ではこの責任の所在が明確でないため、ともすると教育は「お上」がやるもの、学校に教育そのものの管理を任せ、教師に教育権があるような錯覚をしている。学校は「施設」に過ぎないのに、親の不明を学校に押し付けているような風潮もある。
 本来PTA等も子供を学校に預けている親が意向どおりの好ましい教育をしているかチェックするために作られた。しかし現在のPTAはどちらかというと親が先生達に気を使っている傾向があるように見える。余談になるが、勉強嫌いだった中学生の私は、クリスチャンだった担任の先生に、毎日夕方4:00~7:00まで先生の自宅の物置で強制的に勉強時間をもたされた。毎日「中学生時代」と称して先生とこの時の体験をノートに記し、指導を仰いだ。これはもう教育体験というより「人は何のために生きるのか」「仕事とは」という、今の義務教育に欠けている教育の本質と仕事観を教えていただいたような気がしている。

<マッカーサー主導の戦後の社会システム>
 日本の戦後体制のマッカーサー規範は、某米軍幹部から直接教示されたことだが、要約すると
① 日本の統治・行政システムは中央集権型をとり、地方を下部組織として改変し易いピラミッド型とする。結果地域自治力はうすれる。
② 行政・政治システムに「コミッショナー(行政執行のゆきすぎや不正を監視する役)」的機能をはずす。結果、利権構造が温存され、世襲・保守勢力が巾をきかす。指示がし易く米国と連繋し易くなる。
③ 道路網は拡充せず、非常時の滑走路としても機能させない。24ヶ所に及ぶ米軍基地周辺だけでなく、実質的に日本の空の制空権は米国が保持する。国家経済の発展に欠かせない交通体系は道路網より鉄道網の拡充をもってする。結果、コントロールし易い交通体系。結果、各地域でJR・私鉄が都市計画の上で絶大な力をもっている。震災後、鉄道利用が増えている。運賃は高い、見直しされるべきだ。
④ 飛行機製造をはじめ、戦力増強に繋がる産業は諦めない。等々。である。
今日の日本の政治的停滞と国民の無気力は自らが戦後の社会システムを真剣に考え創り出したものではなく若しかすると①~④のような枠組みの中で気付く、気付かないに関わらず従順で平和精神の旺盛な私達がひたすら繁栄を追い求めた結果なのかもしれない。そろそろ考え時ではないか。機は熟しつつある。
 石原都知事がその著書の中で「日本人に欠けているのは、資源ではなく変わろうという勇気とアイディアである。」と明言している。そして大震災を奇貨として、国の未来、経済至上主義のゆきすぎ、物の考え方、まともな人間の生き方、捨ててはならない日本文化、伝統を取り戻すことが大切だ。今もなお、勇気さえあれば、充分間に合う。それ程に自然環境や人間的ポテンシャルに未だ未だ、満ち溢れている。自信をもって変化に挑もう。

<原発デモで原発ゼロを云わざるを得なくなった首相>

復興構想会議とは何だったのか。官僚が結論を先に出している国会と同じくメンバーは政府が作る委員会、会議にも共通して政府よりの、予め出すべき結論に協力的な人々である。会議や委員会の作られ方は国に限らず県も市も自治会に至るまで同じと想える。国有化された新東電もまったく同じだ。新たに取締役に加わった某建材メーカーの代表者が入っているが、元は原発を推進した張本人の米国GEの筆頭副社長の経歴をもつ。何といってもヒドかったのは、原発再開に関する意見聴取会だった。利害関係者をはずし、原則無作為で構成されたはずなのに、中部電力の課長が入っていた。その発言ははじめから原発推進に終始していた。「放射能の直接的悪影響で亡くなった人は一人もいない」しかも「原発を止めれば高コストのエネルギーに頼らざるを得なくなり、経済に著しい悪影響を及ぼし、福島事故以上の不幸が国民を襲う」というような脅しともとれる原発関係者のエゴむき出しの発言に憤った。
背景に政府・電力関係者・官僚の意向が強く裏付けられていて、若しかすると公平・公正な裁判実現のために設けられた、裁判員制度の民間裁判官をこの聴取会に見られるような手法で選ばれていないか。身震いした。
これまでお上任せ、人任せだった国民が国会事故調べをはじめ、堂々巡りを繰り返し、遅々として進まない除染や闇のままの放射能汚染の状況にしびれを切らし国民は黙っていなかった。怒りは大きなウネリとなって国会前の17万人に及ぶデモと化し、津波のように国会関係者の心情に変化をもたらした。首相も度重なるデモの様子に、代表者と面談をし、今回の「2030年代原発ゼロを目指す」発言になったことは、国民、世論の勝利といって良く、どちらかというと政府・大企業よりのマスコミに対抗する努力として旗印を示せたのではないか。
この出来事の中にも私達の拠って立つ日本社会のしくみが、根底から崩れはじめ、近づきつつある変革への胎動が感じられる。この胎動を幸福な日本社会に繋げる牽引者は私達日本人の一人一人の自覚と結論を得るための真の論争に関わっている。
社会システムの根底には司馬さんだったと思うが、見事なこんな表現をしている。「日本人は大海に放り出されることなく、多くは会社という島に辿り着き、自己同一化し安心立命する。」と。規制をし、幾多の独立行政法人を作れば社会が機能すると錯覚している中央官僚にこの言葉を置き換えれば「官僚は、大海に放り出されることなく、十年足らずの偏差値呪縛の中で最高学府に辿り着き、何らの社会実業経験もなく法律を作り、法律の関係団体と自己同一化し、安心立命し天下りする」とは言い過ぎだろうか。官僚が悪いと云っているのではなく、社会システムを動かしているエネルギーやポテンシャルに無関心なのである。
日本の社会・経済の劣化は、皮肉だが英語で同音の「WRECK=レッカ(ぶち壊す、レッカー車のレックと同じ)しかない」と、英国に住む友人が云った。長い道のりだが時間をかけ衆知を集めてやる必要がある。後述するが、英国の政治・社会システムの中に私達の参考にすべきヒントがあると思う。

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